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評価:
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あらゆる情報がシャットアウトされ、満を持して公開された本作。
監督の自画自賛(プロモーションの一環であるにせよ)とは裏腹に、蓋を開けてみれば目も当てられない惨状を呈しており、これによって“松本人志天才説”が過去のものと化したことは、残念ながら一ファンである私としても認めざるをえません。
公開前に期待と懸念を込めた当ブログの記事を要約すると、それはこういったものでした。
1)テレビコントの延長線上に位置するものではないのだろうか?
2)そう仮定した場合、商業映画の尺(90分から120分)では冗長にならないだろうか?
3)結果、著しくバランスを欠いた観客不在の『頭頭』の二の舞にならないだろうか?
果たしてこの懸念は当たらずとも遠からず。
それはともかく、本作は映画として致命的な欠陥を抱えています。それは話者、すなわち視点の一貫性の無さ、です。本作は主人公、大佐藤(松本人志)の日常とその仕事ぶりを追跡取材するドキュメンタリークルー(『情熱大陸』のような)の視点で幕を開けるのですが、大佐藤が日本を襲う獣(劇中では屁理屈を言っているが、平たく言うと怪獣)と闘うシーンでは何故か三人称視点に切り替わり、劇的なカットバックが多用される。
かと思えば取材班が大佐藤に取材テープの一部(別居中の妻を取材したもの)を見せる場面では、バッテリーのメモリ残量を表示させたビデオ画質が登場する。それなら何故、初めからモキュメンタリー部分を全てビデオ画質にしなかったのか?それが戦略に基づいているなら納得もいくのですが、どうやらそうでもない。
無自覚なまま、二人称と三人称が同列に扱われているものだから、観客に余計な混乱と違和感を招くんですね。四代目が暴走し、新聞記事が画面を賑わすくだり。一体あれは誰の視点なのか、それは当然神の視点、すなわち三人称です。少しでも映画作りを理解している人間なら、カメラを取材班が画面に映り込む場所に配置する筈です。たったそれだけで全てが三人称に統一されるわけですから。敢えて切り替えているのなら、その創意工夫が見られない点に於いて失敗していると言わざるをえない。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に代表されるモキュメンタリーという手法は、お手軽に一定のリアリティーが保証される禁断の魔法のようなものです。パロディ化と言えば聞こえはいいですが、批評的見識もないままに安易に手を染めてしまったことは、松本監督の映画体験の未熟さを露骨に現しているのではないでしょうか。
さて、視点問題はこの程度にして物語の内容にもそろそろ触れていきましょう。
私の印象は松本さんの『ごっつええ感じ』時代のコント、『ひねっりっこちゃん』(でしたっけ?)山奥で用途不明な“ひねっりっこちゃん”なる工芸品を製作している職人に取材をするというヤツ、あれを肉付けしていったように感じました。ちなみにこのコントは当然、三人称でした。無論、それ以外にも様々な名作コントのエッセンスが織り込まれてはいるのですが、自ら築いた金字塔を打ち破るには至らなかった、というのが正直な感想です。
ニヤニヤする場面はいくつかあったのですが、唯一ククク、と肩を揺らしたのは童ノ獣を誤って殺してしまう場面でした。これも過去のコントを例にすれば、仲のよい兄妹と二人を気にかけている警官が立ち話をした後、自転車に二人乗りをして立ち去ろうとする兄妹を、警官が背後から射殺するというヤツに極めて構造が似ていると思います。前者は事故、後者は飛躍した正義感という意味では違いますが、“人情味→予期しないアクシデント→死”という具合に分解できると思うのです。そのとんでもない落差に不謹慎な笑いが生まれる。
ところで、本作と『ヴィジュアルバム』などを含む一連のテレビコントとの決定的な差異、それは“誘い水”の有無、ではないでしょうか。誘い水はとつまり、冷めた視線と言ってもいいのですが、例えばコント内の珍妙な言動に共演者が思わず顔をそむけ、込み上げる笑いを噛み殺している時、そこに茶の間とのある種のコンセンサスが成立する。
あたかも我々がその“面白い瞬間”に立ち会っているかの如き錯覚を与えてくれるわけです。役を演ずるべき使命を担っている共演者でさえ、堪え難い“笑い”、その様がまさに誘い水と化すのではないでしょうか。それほど身構えた観客を笑わすのはアクシデントでもない限り難しい。
しかしながら、映画やドラマの撮影ならまず間違いなくNGとなっている筈です。では何故コントならOKで映画ならNGなのか?その線引きは一体何処にあるのか?
とは言え、昨日の記事で触れた石井克人監督の『鮫肌男と桃尻女』の中で、例外的に浅野忠信さんと我修院達也さんのやり取りがコント風でありました(決して面白くはありませんが)。つまり、その暗黙の了解は監督の匙加減一つであり、是非はともかく決して御法度というわけでもないのです。
「俺は既存の型にハマらない!」
「俺が新しい映画を見せてやる!」
本作からはそうした鼻息の荒い気概が十分伝わってきますし、その心意気は買いたいと思います。にも関わらず“笑い”に対するプライドと“映画”という100年そこそこの歴史の狭間で、右往左往しているようにも映るのです。無論、初監督なのですから無理からぬ話ではありますが、新しい大陸が誰も立ち寄らないゴミの島であったことを何故誰も指摘してあげなかったのでしょうか。今後、映画製作の際には周囲の提灯持ちとは一定の距離を置き、映画に精通したプロフェッショナルの血と知を入れるべきでしょう。
「誰の影響も受けていない」などと幼稚なことを仰らず、まずは映画界の先人たちに敬意を払い、その上で本来の意味で革新的な映画に挑戦すべきと思います。テレビコントと映画のどちらが上位文化か、などということは愚問なのですから。確かにテレビに比べ、映画は自由度のより高い媒体です。しかし、より古い媒体でもあるのです。
ルイス・ブニュエル、アレハンドロ・ホドロフスキー、ジョン・ウォ―ターズ、少なくとも彼らのような存在を知った上で松本監督は新たな一歩を踏み出してほしい。ファン故に長文となり厳しいことを言いました、お察しください。