愛の巴投げ無節操で無責任な映画レビュー

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ユナイテッド93 17:03
評価:
Amazonおすすめ度:
21世紀の幕開け
心に空いた穴の大きさは
真実は依然「藪の中」だが
2006年
監督/脚本:ポール・グリーングラス
出演:デヴィッド・アラン・バッシェ、リチャード・ベキンス、スーザン・ブロンマート、レイ・チャールソン、クリスチャン・クレメンソン、ハリド・アブダラ、ルイス・アルサマリ、ベン・スライニー、ジェームズ・フォックス少佐、グレッグ・ヘンリー

“9・11”という現代アメリカ最大のトラウマを扱うにあたり、極力、製作者側の主観を排除することに腐心した形跡は窺えるし、それは最大限果たされていると思う。誰も傷つけない、どこからも文句を言わせないようにするには、この選択しかなかったのかもしれず、政治的な配慮、ある種のしたたかさは完璧であった。そういった意味であの事件の記憶、誤解を恐れずに言えばあの“興奮”をまざまざと蘇らせてくれる資料的価値というのは大いにあるだろう。ただ、やはり良くも悪くも出来のいい“再現ドラマ”との印象は否めない。しかしながら、それが本作の価値を下げている本質的な問題なのかといえば、それも違う。

そもそもポール・グリーングラス監督は、本作が100年後も映画史に燦然と輝く傑作たりうるものだとはさらさら考えていない筈で、仮に本作が良く出来た再現ドラマだからと言って、その批判は的の端を射抜く程度だろう。おそらく、彼がやっていなければ、いずれ他の誰かがこのような作品をつくったであろうことは容易に想像つく。すなわち、陳腐な言い方をすれば時代の必然であり、むしろ5年の歳月を経てようやくアメリカはあの事件と正対する覚悟を決めたのではないか。そう考えると、“映画”としてこれ以上の要求はすこし酷な気がしてくる。ともかく、風化するということはさすがにないと思うが、テロ特措法で紛糾する今だからこそ、本作はさっさとテレビ放映でもした方がいい。
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夜のピクニック 21:54
評価:
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ミステリータッチのさわやかな青春映画
私には合わない映画だった
秀作。バランスが取れた、雰囲気のある作品。
2006年
監督:長澤雅彦
脚本:長澤雅彦、三澤慶子
出演:多部未華子、石田卓也、郭智博、西原亜希、貫地谷しほり、松田まどか、柄本佑、高部あい、加藤ローサ

原作は確か2、3年前に『本屋大賞』を受賞した恩田陸さんの小説。まだこの『本屋大賞』が本来の機能を果たしていた時期ですね。さて、映画の方はと言うと、下手な小細工をしなければ、こじんまりとした佳作になり得たものを、演出と音楽が全て台無しにしているような印象を受けました。まるでテンプレートのように、回想シーンと共に興を削ぐBGM(しかも歌付き)が流れ出し、それが歩行祭の一部とワンセットになってただひたすら繰り返される、この芸の無さに辟易。かと思えば、さほど効果的とも思えない実写とアニメーションの共存を試みてみたり、唐突でなんの意味も成さない幻想的描写(バスのアレです)を挿入したり。演者の好演もむなしく、原作の魅力に迫るには至っていない。NHKで放映されていた実際に行われている歩行祭を追ったドキュメンタリーのほうがよほど面白かった。しかし、多部未華子さんの素朴な感じは実に良いので、このまま垢抜けないでいてほしい。
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ヨコハマメリー 12:18
評価:
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語り継がれるべき女性の一生
横浜娼婦な証言譚
どうか偏見なく観て欲しい。陰の戦後史に生き抜いた者たちの信念と魂の物語。秀作!
2005年
監督:中村高寛
出演:永登元次郎、五大路子、杉山義法、清水節子、広岡敬一、団鬼六、山崎洋子、大野慶人、福寿祁久雄、松葉好市、森日出夫

メリーさんの存在を初めて知ったのはいつだったろう。やはり中島らも著『白いメリーさん』だろうか。いや、でもそれ以前から知っていた気がする。それはともかく、どの街にもちょっと気になる人っているもんですよね。私が利用する駅でもでっぷりと太り、しかも禿げちらかしたオカマさんと稀に遭遇し、ギョッとしたりするものです。これが誇張なしで『ピンクフラミンゴ』のディバインそっくりなんですね。他にもぶつぶつ独り言を呟きながら、四六時中とある交差点に佇む迷彩服を着た女性(しかも丸刈り)もいます。おそらく私以外にも気になっている方が大勢いらっしゃるのではないでしょうか。

そんな“気になるあの人業界”で横浜のメリーさんは群を抜く知名度を誇っていた、と。私ですら知っていたくらいですから。ちなみにこれぐらい白塗りのおばあさんって私も見たことがあります。車を運転してる時にすれ違ったんですね。やっぱり見慣れないのでギョッとした覚えがあります。名古屋駅の西口にも80歳近い現役の娼婦が立っているなんて噂を聞いたことがありますし、案外、全国津々浦々メリーさん的な方っているのかもしれない。そんな中である意味、横浜のメリーさんは周囲の人々に恵まれていたんですね。シャンソン歌手の永登元次郎さんをはじめ、クリーニング屋の奥さん、美容院の奥さん、根岸家の座敷芸者さん、等々。

「メリーさんが使ったカップはイヤだ」なんてクレームを受けた喫茶店が、メリーさん専用のカップを用意しただなんて粋じゃありませんか。お茶に誘った化粧品屋の奥さんは頑なにメリーさんから拒まれた、それをご主人に話すと、ご主人はこう言ったそうです。「娼婦の仲間と思われないように、メリーさんが気を利かせてくれたんだ」と。勿論それはご主人の勝手な推測なんだろけど、施しを嫌う、根岸家のおねえさん曰くプライドの高いメリーさんらしいエピソードだと思う。

“作品”としてはまず、題材がぶっちぎりで面白い。尚且つ、その見せ方、構成がこれまた素晴らしい。記録映画でこんなカタルシスを得られるとは。この“忽然と姿を消した人”を追う展開っていうのは、例えば宮部みゆきさんの『火車』と似ていなくもない。いや無論、媒体も違えばフィクションとノン・フィクションという大きな違いはあるのですが、それぐらいによく出来た構成なんですよね。横浜という複雑な事情を抱えた街とそこに生きる、生きた人々、伊勢崎町の戦後史を具現化した象徴としてのメリーさん、きっと私なんかには到底想像もつかない、ここでは触れられなかった業も背負っているのかもしれない。しかしながら、一体誰に彼女の生き様を否定することが出来るだろうか。泥臭く、しかし美しく生きたメリーさん。明日から我が街のディバインにも優しい眼差しを送りたいと思います。
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13:17
評価:
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キム・ギドク監督入門
言わなくていい。
稀にみる作品
2005年
監督:キム・ギドク
脚本:キム・ギドク
出演:チョン・ソンファン、ハン・ヨルム 、ソ・ジソク、チョン・グックァン

だからぁ……っとにぃもう……絶対、天然でしょう、この人。困ったちゃんだなぁ。
もしくはギャグでやってるんだったら謝りますけど。それならおおいに楽しめました。嫉妬に狂う爺様の顔が見事にツボに命中。だってムキーッてなったら矢をビューンでしょ。笑うなってのが土台無理ですよ、そりゃあ。ウンバボ族じゃないんだから。あと、あんちゃんが鶏の頭ひっぱいてたのも笑いましたね。弓占いったってテメエの匙加減じゃんよ、と思ったり。それから女の子の衣装が妙に小洒落ているのもどうなんでしょうか。買出しにいく爺様のセンスがいいのか、それとも沖にIKKOみたいな世話焼きスタイリストが待機しているんですかね。北野武監督の『Dolls』で乞食設定の菅野美穂さんの衣装が、なんたらヨージか知りませんけど春の新作発表会みたいだった違和感。まあ、そいったのもひっくるめて良くも悪くもファンタジー全開。敢えて言うならA級気取りのトンデモ映画でしょうか。

いや、辛うじて60分くらいまではなんやかんや「コントかよ」なんつって自己補正しながら失笑しつつも、着地がうまく決まれば傑作になり得るんじゃないか、なんて淡い期待も抱いておりました。『サマリア』ですぐ死んじゃったYUI似の子はやはり良かったですし。でもね、結婚式以降で全て台無しです。当然感じてはいましたよ、「ああ、また寓話ですか、あんたも好きねぇ」って。そしたら奥さん、ビックリですよ。杉作J太郎先生も裸足で逃げ出すエアーセックス・イン・コリア・オーシャン・ビュー大会が開催されちゃうんですから。あんな可憐な女子がぶっちぎりで優勝っすよ。んでまた矢がビューンで血がドーンってなってアハハハハハ。ハハ、ハハ、はぁ……。で、トドメの字幕でしょう?弓のように強く張り詰めて生きたいんですって……。ですよね、カトゥーンも唄ってたっけ、ギリギリでいつも生きていたいって。めでたし、めでたし。

とは言え、ギドク監督が好きだっていう人の気持ちも判らなくはない。台詞を完全に排除し、眼とその表情だけで全てを伝えようというその気概や良し。映像というメディアの特性を生かしていると思います。舞台装置は限定されていますが、この演出を演劇に流用することは至難の業でしょう。その意味でも映画にした甲斐はあると思います。尺も90分とコンパクトにまとめてあって好感が持てる。

しかしながら、演出があまりにも一本調子で洗練されていない。160キロの剛速球タイプとでも言いましょうか。特に終盤、青年が老人に弓占いを依頼する、その結果を少女がまず老人に耳打ちして伝え、それをまた老人が青年に耳打ちするわけですが、この際の演出にそれが顕著で、幾度か繰り返されてきたそれまでと同様の段取りをここでも踏んでいるわけです。この無為無策な演出はいただけない。青年が依頼した占いの内容はそれまでのどれとも似ていない異質なものなわけですから、ここは変化球を放るべきだろうと思うのです。

例えば引きの構図を用いて少女が占いの結果を二人へ“同時”に伝える。それに対するリアクション、すなわちうな垂れる、あるいは勝ち誇るというジェスチャーをさせればよい。それならばそれまで維持してきたように少女と老人の声を聞かせないという課題もクリアできますし、なによりこの場面では老人と青年が“答え”を知るのにタイムラグがあっては絶対にならない。他はハズしてもここだけは押さえておくべきポイントでしょう。

こうした細かい配慮が剛速球タイプであるが故、決定的に欠けているわけです。群雄割拠の韓国映画界において、突出した才能の持ち主であることは疑いませんが、そうであるからこそ余計残念に思えてなりません。ギドクファンの方はこのぶっ壊れた感覚がお好きなんでしょうか。個人的にはポン・ジュノ監督みたくB級映画に開眼してくれたら好きになれるかもしれません。むしろそっちと相性がいい方なのではないかと。



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ヤクザタクシー 893TAXI 15:30
1994年
監督・黒沢清
脚本・釜田千秋/黒沢清
出演・豊原功補、森崎めぐみ、大森嘉之、寺島進、諏訪太郎

個人的に黒沢清監督については、この前後から『蛇の道』『蜘蛛の瞳』あたりまでの量産作家時代に強い愛着があります。以降、いわゆるJホラーの雄としての力量に疑いの余地はないまでも、その剥き出しな“作家性”とは裏腹に監督自身がしばしば言及されるトビー・フーパーやジョン・カーペンターのような娯楽映画群から徐々に迂回してしまっているというその言行不一致な態度に、世界でもトップクラスの才能であるが故にやきもきさせらる存在としてこれまで意識的に距離を置いてきました。

『LOFT』が映画の求道者、あるいは指導者宣言であったと解釈するなら、やはり黒沢監督は映画について少し知りすぎてしまったのではないでしょうか。そうであるからこそ身動きがとりずらくなり、業界の評判と反比例するかのように製作ペースも徐々に落ち込み、観客と正対することを極力避けているようにも感じられる。

もっと言えば国内外を問わず、批評家や一部のシネフィルだけをターゲットにしているのではないかというあざとさ、したたかさへの疑惑や、映画史に名を連ねる準備(って絶対に残ると思いますけど)を着々と進めているのではないかと意地悪な勘繰りをしてみたくもなります。

それに比べて本作の肩の力の抜け具合はどうでしょう。Vシネマという抑圧と自由度のバランスが巧妙に黒沢監督の魅力を引き出しています。自説を展開させてもらうなら、やはり作家性の強い監督はある程度の縛り、抑圧が必要なのだと再認識させられます。

解散したタクシー会社を再び誠二(豊原功補)が訪れ、加奈子(森崎めぐみ)と再会し押し問答するくだり。誠二が怒って破れたクッションを叩きつけると中の羽が一斉に舞い、それに反撥する加奈子が叫ぶと天井から錆びたチェーンがドサリと落ちてくる。このシーンがとりわけ素晴らしい。軽妙なスラップスティックとしても機能している草原でのクライマックスもまた言うに及ばず、いずれも黒沢的としか言いようのない特徴的な演出を存分に堪能することが出来ます。助監督に名を連ねる青山真治氏にも思わずニヤリ。



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ユダ 23:12
評価:
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観念的ですが上手くまとまっていると思います
岡元夕紀子さんを見る映画
2004年製作
監督 瀬々敬久
出演 岡元夕紀子、光石研、本多一麻

同型DVカメラと同一予算で腕を競う企画、映画番長。
その中のエロス番長シリーズ第一弾。
同シリーズの『ともしび』(吉田良子監督)はテレビの深夜放送で観ましたが、とっても退屈な作品でした。映画美学校の卒業生だそうですね。本シリーズもほとんど美学校絡みだそうで、現場への斡旋装置としてはよく機能しているようです。

秀作だとは思うのですが、どうにも尻の坐りが悪い作品ですね。
瀬々監督にとって初のデジカメ作品ということや“エロス番長”という企画のトップバッターとして多少の気負いがあったのだろうと推察します。定まらない語り部や一貫した手持ち撮影などにそれは顕著です。

とにかく熱く、青く、恥ずかしい、というのが私の印象です。
何故かというとキーワードやテーマがあまりにも露骨なんですね。無防備過ぎる。わざとならまだ救いはありますが、無自覚だとしたら瀬々監督が今ひとつ一般的にブレイクできずにいる要因はそこにあるのではないでしょうか。例えばタイトルにもある“ユダ”というのは小さな映像製作会社を運営する私(光石研)が街頭でネタ探しをしている際、目をつけた男性の心を持つ女性(本多一麻)のあだ名なんですが、その命名の由来というのがキリストに似た浮浪者に彼女が絡まれていたからというもので、そのなんの捻りもない描写にしばし唖然としました。

これはほんの一例で、他にもDVに苦しむ我が子を愛せない母親や、16歳をキーワードとする親殺しなど当時の事件、堕天使的存在の知能に障害を持つ男、等々。このように本作はまだアイデアの段階で表現には至っていないと思うのです。もう一捻り、ないし二捻りは欲しい。

中高生ならまだしも、いい歳こいた大人が“人との繋がり”に翻弄されて人を殺めてまで右往左往する様なんて正視に堪えませんよ。神話的なものを引用して崇高に見せかけているのかも知れませんが、それが露骨なものだから陳腐さと紙一重なんです。しかしながら、そんな爆弾を抱えつつも凡百の作品よりはましだと思えるのだから困ったものです。

岡元夕紀子さんもお綺麗ですし、決して嫌いな映画ではないのですが、このどうにも恥ずかしいセンスだけは相成れませんでした。映画芸術では一位を獲得したそうですが、いかにもなセレクトだなぁという感じで苦笑する他ありませんね。
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夜よ、こんにちは 02:34
評価:
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極めてナイーヴなテーマだが、映画は静思に我々に訴えかける。
マルコ・ベロッキオ監督の『夜よ、こんにちは』を鑑賞。
本作は1978年にイタリアで発生したアルド・モロ元首相誘拐殺人事件に基づいて描かれています。実行犯は“赤い旅団”と呼ばれるマルクス・レーニン主義者たちで、その中でもいわゆる極左過激派集団なんですね。我が国に於いても日本赤軍のハイジャック事件なんかに代表されるように、70年代はテロルの時代でもあったわけですが、“赤い旅団”によるモロ元首相殺害事件は当時のイタリア国内に激震をもたらした。

私が生まれた翌年の出来事ですので、当時の状況を克明に知る筈もありませんが、国家元首がテロリストに誘拐され、まして殺害されてしまったわけですから、その衝撃たるや如何ばかりであったか。日本でもオウム騒動の最中、國松元警察庁長官狙撃事件がありましたが、どちらも国家の面目丸潰れと言っても過言でない大失態です。

本作ではそんな“赤い旅団”に所属する女性メンバー、キアラ(マヤ・サンサ)を中心に物語は展開されます。冒頭、キアラが男と共に新婚夫婦を装って新しいアパートを借りるのですが、実は首相を監禁するためのアジトとして利用するわけです。

ただ、私もいけないのですが、一切の予備知識を排して観始めたものだから、冒頭から30分くらいの間、一体何の話なんだかさっぱり意味が判りませんでした。この手の映画の常ではありますが、説明描写が限界まで削られているんですね。まして首相を誘拐するアクション的見せ場もなく、キアラがテレビ速報で誘拐成功の報を知り、歓喜するという自主映画ばりの地味さ加減。

それに輪をかけて、物語の8割方がアジト内の描写に限定されるものだから画的な地味さったらこの上ない。とは言え、その密室劇じみた閉塞感が一定の緊張感を物語に与えていて、プロレタリア革命原理主義者たちの狂気が狭苦しいアパートで渦を巻く様子が不気味に際立つんですね。

キアラは図書館に勤務する公務員なんですが、そこで出会う文学青年とテレビ、あるいは新聞によって“赤い旅団”に対する世間の声を知る。無論、非難の嵐です。盲目的に信じていたプロレタリア革命という“バカの壁”が徐々に崩壊し、恋にも似た文学青年のアプローチがキアラを懐柔していく様をベロッキオ監督は丁寧に描きます。

“赤い旅団”と政府の交渉は難航を窮め、遂にそれはローマ法王にまで波及していくのですが、ローマ法王による「モロ首相の無条件開放」という彼らの主張を断固拒否する声明に憤慨した“赤い旅団”は、モロ首相に一方的な死刑判決を言い渡す。

私が印象的だったのは、その段になってようやく“赤い旅団”に対する猜疑心が萌芽したキアラが、リーダーにモロ首相の殺害を中止するよう訴える際に、リーダーが言い放った一言。
「革命闘争に博愛主義はいらないんだ。プロレタリアの勝利のためには、母親も殺す。今は不可解で非人道的な行為も、主観的現実を消し去る英雄的行為になる。博愛の極みだ」
という、一度耳にしただけではいまいち理解出来ないこの台詞。

私なりに噛み砕いて言うと、「正義のためなら、結果オーライっつうことで、人殺しだって仕方なくない?」みたいなことでしょうか。

かなり危なっかしい理屈ではあるのだけれど、一概に否定は出来なくて、例えば金正日政権打倒を謳い、北朝鮮市民と軍部が立ち上がったとしたら、おそらく私は遠く離れた地でエールを送るでしょう。たとえそれによって多くの血が流れたとしてもです。ただ、なんとかに刃物とやらで、果たしてその正義が誰のためのものなか、という事が解釈の別れるところではありますが。

また、その一連のくだりで面白かったのが、共産主義者のコミュニティーでありながら、たった一人の異議によって民主主義的な手続きを踏まねば足踏み状態に陥ってしまうという皮肉。

久々に充実した素晴らしい映画でした。
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