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評価:
Amazonおすすめ度:
極めてナイーヴなテーマだが、映画は静思に我々に訴えかける。
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マルコ・ベロッキオ監督の『夜よ、こんにちは』を鑑賞。
本作は1978年にイタリアで発生した
アルド・モロ元首相誘拐殺人事件に基づいて描かれています。実行犯は“
赤い旅団”と呼ばれるマルクス・レーニン主義者たちで、その中でもいわゆる極左過激派集団なんですね。我が国に於いても日本赤軍のハイジャック事件なんかに代表されるように、70年代はテロルの時代でもあったわけですが、“赤い旅団”によるモロ元首相殺害事件は当時のイタリア国内に激震をもたらした。
私が生まれた翌年の出来事ですので、当時の状況を克明に知る筈もありませんが、国家元首がテロリストに誘拐され、まして殺害されてしまったわけですから、その衝撃たるや如何ばかりであったか。日本でもオウム騒動の最中、國松元警察庁長官狙撃事件がありましたが、どちらも国家の面目丸潰れと言っても過言でない大失態です。
本作ではそんな“赤い旅団”に所属する女性メンバー、キアラ(マヤ・サンサ)を中心に物語は展開されます。冒頭、キアラが男と共に新婚夫婦を装って新しいアパートを借りるのですが、実は首相を監禁するためのアジトとして利用するわけです。
ただ、私もいけないのですが、一切の予備知識を排して観始めたものだから、冒頭から30分くらいの間、一体何の話なんだかさっぱり意味が判りませんでした。この手の映画の常ではありますが、説明描写が限界まで削られているんですね。まして首相を誘拐するアクション的見せ場もなく、キアラがテレビ速報で誘拐成功の報を知り、歓喜するという自主映画ばりの地味さ加減。
それに輪をかけて、物語の8割方がアジト内の描写に限定されるものだから画的な地味さったらこの上ない。とは言え、その密室劇じみた閉塞感が一定の緊張感を物語に与えていて、プロレタリア革命原理主義者たちの狂気が狭苦しいアパートで渦を巻く様子が不気味に際立つんですね。
キアラは図書館に勤務する公務員なんですが、そこで出会う文学青年とテレビ、あるいは新聞によって“赤い旅団”に対する世間の声を知る。無論、非難の嵐です。盲目的に信じていたプロレタリア革命という“バカの壁”が徐々に崩壊し、恋にも似た文学青年のアプローチがキアラを懐柔していく様をベロッキオ監督は丁寧に描きます。
“赤い旅団”と政府の交渉は難航を窮め、遂にそれはローマ法王にまで波及していくのですが、ローマ法王による「モロ首相の無条件開放」という彼らの主張を断固拒否する声明に憤慨した“赤い旅団”は、モロ首相に一方的な死刑判決を言い渡す。
私が印象的だったのは、その段になってようやく“赤い旅団”に対する猜疑心が萌芽したキアラが、リーダーにモロ首相の殺害を中止するよう訴える際に、リーダーが言い放った一言。
「革命闘争に博愛主義はいらないんだ。プロレタリアの勝利のためには、母親も殺す。今は不可解で非人道的な行為も、主観的現実を消し去る英雄的行為になる。博愛の極みだ」
という、一度耳にしただけではいまいち理解出来ないこの台詞。
私なりに噛み砕いて言うと、「正義のためなら、結果オーライっつうことで、人殺しだって仕方なくない?」みたいなことでしょうか。
かなり危なっかしい理屈ではあるのだけれど、一概に否定は出来なくて、例えば金正日政権打倒を謳い、北朝鮮市民と軍部が立ち上がったとしたら、おそらく私は遠く離れた地でエールを送るでしょう。たとえそれによって多くの血が流れたとしてもです。ただ、なんとかに刃物とやらで、果たしてその正義が誰のためのものなか、という事が解釈の別れるところではありますが。
また、その一連のくだりで面白かったのが、共産主義者のコミュニティーでありながら、たった一人の異議によって民主主義的な手続きを踏まねば足踏み状態に陥ってしまうという皮肉。
久々に充実した素晴らしい映画でした。