愛の巴投げ無節操で無責任な映画レビュー

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | - | posted by スポンサードリンク -
野良猫ロック・ワイルド・ジャンボ 23:07
評価:
Amazonおすすめ度:
待望のDVD発売!
1970年
監督 藤田敏八
出演 梶芽衣子、藤竜也、范文雀、地井武男

本作は野良猫ロックシリーズの第2作目。
物語はともかく、70年代っていい意味で無茶苦茶な作品が多いですよね。本作もその例に漏れずやりたい放題の連続です。無軌道に生きる若者たちが宗教団体の資金を強奪するというのが本筋なんですが、あまり真剣に描こうという気はないようで、単純に当時の風俗なんかも織り交ぜながら、劇中で拳銃をぶっ放したかっただけなんじゃないでしょうか。

地井さんもまだまだお若くて、まさか本人も数十年後に「50、80喜んで」なんて言わされるとは夢にも思わなかったでしょう。そうしてみると藤竜也さんの印象があまり変わっていないのは驚異的ですね。

和田アキ子さんも前作からの繋がりでゲスト出演していらして、ソウルフルな歌声を披露してくれます。それがまた悔しいことに結構ナウいんですよね。70年代の文化が時折リバイバルされる現象はよく理解できますが、どう間違ってもバブル真っ只中の80年代が見直されるなんてことはないでしょうね。精々『バブルへGO!』みたいなネタにされるのが関の山でしょう。中学生当時、『トゥナイト』で特集されていたジュリアナ東京に象徴される浮かれ風潮を唾棄し、夜中テレビに向かって罵倒していた(心の中でですよ)のを思い出します。そんなジュリアナ東京の主催者がコムスン騒動で生き恥を曝しているのを見て、快哉を叫んだりしては絶対にいけないのであります!

『やまだかつてないテレビ』『MOGITATE!バナナ大使』『夢がMORIMORI』等々、数え上げれば枚挙に暇がありませんが、幼心に「くっだらねぇ」と白い眼で毎週見ていた気がします。あまりバブルの恩恵を享受した記憶がない者にとっては嫌な時代でしたね。なんでこんな話をしているのかと言うと、昨日、偶然見た『笑っていいとも』に山田邦子さんがゲスト出演していらして、当時の「なんでこんなツマラナイ人がいっぱいテレビに出ているんだろう」という至極当然の疑問、及び行き場のない怒りが再燃したからです。森脇健二さん、森口博子さんはお見かけしなくなりましたね。中山ヒデちゃんはまだ健闘されていますが……。

ここは野良猫ロックよろしくライフル片手に「お寒いテレビタレントは消えてなくなれ!」などと叫びながら局内で銃乱射をしたりしては絶対にいけないのであります!いけないのであります!
乗客に日本人はいませんでした!
| 映画 ナ行 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by helmetbros -
ナイロビの蜂 22:37
評価:
Amazonおすすめ度:
愛の強さ
政治サスペンスと永遠の愛を語るラブストーリイが見事に融合
素晴らしい構成で、みせてくれます
『シティ・オブ・ゴッド』を撮ったテレビ業界出身のフェルナンド・メイレレス監督の劇場用映画第2作目。日本での公開は2006年ですね。主演はレイフ・ファインズ、その妻役を演じたレイチェル・ワイズは本作でアカデミー最優秀助演女優賞を受賞しています。

要するに個人VS国家規模の巨大利権構造みたいなお話ですよね。
ジョン・ル・カレの小説が原作だそうです。

日本国内でもミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)の薬害エイズや最近だとタミフルなんかの問題がありましたし、ライブドア事件に絡んだ野口氏の変死や松岡元農林水産大臣の自殺など、利権がらみの(と推測される)事故や事件は現在進行形で起きているわけでして……。

しかし厄介な奥さんですよねぇ、怖いもの知らずと言うか猪突猛進タイプ、これはもう“博愛原理主義者”と呼んでも差し支えないかと。それを印象付けるエピソードはなかなか秀逸です。

まず冒頭近くの講演会で場の空気を読まずに、アメリカのイラク戦争に追従した政府の姿勢を問い質し、一外交官でしかないジャスティンに対して説明責任を求める。ここでテッサのキャラクターが明確に提示されるわけです。

滞在先のナイロビでは、40キロも歩かなければならない地元の少年を車で送っていけと、反対する夫に食い下がる。夫が反対する理由は砂漠をコップの水で湿らせるように不毛な行為だというもので、それでも妻は目の前の乾きを癒すことだけは出来ると反論する。
どちらにも一理あるわけですが、これも夫婦の立ち位置を象徴するよく出来たエピソードだと感心させられます。

それ以外にもメイレレス監督のスマートな演出が随所に散見されます。
例えば結婚前、ジャスティンがナイロビに派遣されると知ってテッサは同行を申し出るのですが、YESorNOを迫られてもジャスティンは口籠って答えない。
すると次の場面転換ではナイロビに移り、村を視察するテッサの姿が映される。しかも腹が大きく突き出ている。そこで観客は二人の結婚と既に妊娠までしていること、すなわちある程度の時間経過が視覚的に読み取れる。
この“視覚的”というのが肝ですね。
「ねえ、あなた……」
「ん、どうした?」
「出来たみたい……赤ちゃん」
「なにぃ!本当か!でかしたぞこの野郎!」
みたいな会話は必要ないわけです。無論、結婚式も。

その二人の子供が死産を迎える場面もまた印象的です。大部屋の病室のベッドで何故かテッサは浮かない顔で黒人の赤子に乳を飲ませている。ジャスティンもテッサも白人ですから、黒人の赤子が生まれる筈などない。つまり死産したものの乳だけは出るので、12歳で赤子を生んだ母親の代理を務めているという痛ましい演出なわけです。

『シティ・オブ・ゴッド』はリオデジャネイロの貧民街が舞台でしたが、本作でも発展途上国の悲惨さを描いているという意味では監督の動機に共通したものが窺えますね。地獄の釜の蓋を妻が開け、そこに手を突っ込んだ夫、一応二人は一矢報いるのですが、結末はあまりにも儚い。

本当に恐ろしいのは、一人の悪の親玉が存在するという単純明快な構造ではなく、責任の所在が漠然としていてはっきり見えてこないという現実ですね。市場原理が抱える空恐ろしさの一端を垣間見ることが出来るのではないでしょうか。
(って毒にも薬にもならない女性週刊誌の映画紹介みたいですね)

歯切れの悪いことしか言えないのは、決して悪い映画ではないんですけど、悲惨過ぎて気が滅入っちゃうんですよねぇ。個人って無力だなぁ、と。ともかく問題提起として前面に押し出しつつも、エンタメのオブラートに包まれているのでうまく機能している部類なのではないでしょうか。

本作とか『ミリオンダラー・ベイビー』を劇場で観たカップルはどんな顔して帰ったんでしょうかねぇ。汗を握ったベトベトの手で彼女の手を引き、「そんなことよりさぁ、メガマックでも食べない?」と呟いた男性は100%軽蔑されたでしょうね。
連れ合いがテッサのような熱い正義感をお持ちの方は言動を慎みましょう。
| 映画 ナ行 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by helmetbros -
紀子の食卓 02:29
評価:
Amazonおすすめ度:
過剰なパワー溢れる傑作
大人になること・成長・名前について(ネタバレ注意)
ここがヘンだよ日本人
園子温監督の『紀子の食卓』をDVD鑑賞。
本作は同監督の『自殺サークル』の続編、あるいは補完する位置付けがなされていますが、作品内での時系列は多少前後します。

園監督の作品には以前から苦手意識があって、それは『自殺サークル』で決定的なものとなり、『奇妙なサーカス』でもそれは覆らず、自然、本作もずっと敬遠してきたわけです。

観賞後、ネット上での寸評を適当に見て廻ったのですが、概ね好意的な意見が多数を占めていました。確か宮台真司さんあたりがかなり持ち上げていたと記憶しています。

で、結局私の意見はどうなのかと言えば、辛うじて終盤30分間のみ、面白く観た、というかなり消極的な評価に留まります。そもそも私の園監督に対する苦手意識というのは監督の出自が詩人である、ということに由来すると自己分析するのですが、例えば紀子(吹石一恵)がクミコ(つぐみ)に連れられ住宅街を歩きながら、そこで目にする猫たちがまるで町の中で脈打つ動脈のようだ、なんてモノローグが差し挟まれるシーンに代表される、いわゆる“ブンガク的”表現や言い回しが鼻につくと言いますか、有り体に言えばダサく感じられるんですね。

そんな園子温的美意識に基づくモノローグが前半、怒濤のように押し寄せる。とにかくこれでもかと言わんばかりの饒舌さです。ではそういったモノローグという手法が邪魔なのかと言えばさにあらず、『パビリオン山椒魚』を監督された冨永昌敬さんの自主製作映画で『亀虫』という作品があるのですが、『亀虫』で多用されるこれまた饒舌な“ブンガク的”モノローグというのは厭味がなく、むしろ心地良いとさえ感じられる。

それではこの差は一体何なのか。一言でいってしまえばセンスの差なんでしょうが、それを言っては元も子もないので、もう少し掘り下げてみましょう。

『亀虫』で冨永監督が用いる言葉、ここで言うモノローグにはどこか照れ臭ささや台詞そのもに対する不信感が根底にあると思うのです。あるいは言葉との距離感と言い換えてもいいのですが、それってすごく重要なことで、至極真っ当な態度だと思うんですよね。ところが園監督の場合、言葉に対する信頼度がハンパねぇ、といきおいZEEBRA口調になってしまうほど。

それでも言葉を完全に統率出来ていれば一つの名人芸と成り得るのですが、コラージュされた言葉たちが意味を紡ぐ前に瓦解してまっている印象が毎度拭えないのです。悪い言い方をすると、それ言いたいだけだろ、みたいな。

詩とはギリギリまで削ぎ落とされた言葉の集積が放つ美しさである、という私の認識からすれば、園監督が提示する言葉たちの群れは、詩にも文学にもなりきれないフリークスのようにしか映らないのです。小説で言えば川上弘美さんの作品なんて必要最小限の言葉なのに美しいですよね。

どうやら『自殺サークル』でも頻繁に登場する
あなたはあなたの関係者ですか?
という問いかけがひどくお気に入りの様子ですが、キャッチコピーとしては名文かもしれないけれど、使用頻度が増す度にチープな言葉遊びにしか聞こえないのは私だけでしょうか。

ストーリーにしてもそうです。高尚なテーマを扱っているつもりなのかそうでないのかは監督自身に聞かなければ判りませんが、ともすれば青臭いだけとなってしまうリスクは常につきまとうわけで、本作がそれを回避出来ているかと言えば、私は非常に怪しいと感じました。

あれほどまで悲惨な目に合う様な落ち度が、父親(光石研)にあったでしょうか。私には良い父親の部類に入るキャラクターにしか映らなかったので、何故あのような境遇に陥ってしまうのか全く理解出来ません。むしろ“ココデハナイドコカ”“ホンライアルベキアタシ”“ソメイヨシノキミハ”みたいな寝言をほざく娘たちにこそもっと試練を与えてやるべきです。家出する前に頬を2、3発張ってやれば済む話でしょう。

これが例えば不条理コントであればここまでの嫌悪感は抱かないのでしょうが、喫茶店で父親に滔々と語る男のように、無表情でシリアスに迫ってくる本作はどうやら悪趣味な喜劇でもないらしい。

退屈な日常を否定し、虚構の中で構築された日常にこそリアルがある、とでも言わんばかりの論調には、例えそれがフィクションであったとしても否定さぜるを得ない。退屈で代わり映えのしない日々こそ大多数の人間が生きる日常であり、リアルなのですから。だったらせめて『マトリックス』のような大掛かりな嘘をついて欲しいというのが私の願いです。

最後に良かった点も述べておきましょう。
ラストチャプターから物語は俄然勢いを増します。それが結実されるのは、なんと言っても父親がガスボンベを探し、擬似一家がキッチンに集うくだり、妹のミカ(吉高由里子)が嗚咽を漏らしながら時間延長を訴える演技にはしびれました。

そう言えば以前、三木聡監督が苦手だって書きましたが、この二人が絡む『時効警察』が観ていられないのは私にとって自明の理というものですね。

気分を害された園子温ファンの方、申し訳ありません。
嘘をつけないたちなので、他の映画ブログを覗いて溜飲を下げてください。
| 映画 ナ行 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by helmetbros -
| 1/1 |