ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 |
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評価:
Amazonおすすめ度:
プレーヤー視点の文学の誕生
本旨には4割方賛同しますが……
さすがの一言
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本書は同著者の『動物化するポストモダン』という前著の続編にあたるわけですが、その『動物化するポストモダン』の副題が“オタクから見た日本社会”とされていたように、オタクの中でもとりわけアニメ、漫画、ゲームを愛好する人々、いわゆる“2ちゃんねらー的”な人々の視線や、それを取り巻く日本社会の現状を、アカデミックな見地から分析し批評したものでありました。
オタク文化の著名な論客と言えば大塚英志氏や岡田斗司夫氏がパッと浮かびますが、両者が漫画やアニメの創作現場から現れた批評家であるのに対し、一方の東氏は『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』という当時若干27歳の若者が哲学体系を紐解く恐るべき処女作で論壇デビューを果たしたように、あくまでも哲学者であり、批評家であり、尚かつ自身もどっぷりとオタク文化に浸っているオタク、一消費者としての立場から『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズムの誕生』は綴られています。
私は近年のいわゆる“萌え文化”や本書でもメインテーマの一つとされている“ライトノベル”に対する抵抗感があり、自分なりに思うその要因というのは、東氏の言葉を借りれば“データベース化”された記号としての美少女であったり、それを生成する要素の大きな瞳であったり、猫耳であったり、緑色の髪であったりするわけです。まあ、それは言い訳で勉強不足、怠慢ですね。しかし言い訳させてもらうならば、萌え漫画をレジに持っていく行為は、私にとってポルノ雑誌以上にそのハードルが高いのです。(そんな時のアマゾンという理屈はまた別として)
例えば大塚英志氏は著書『キャラクター小説の作り方』の中で、やはり同様にライトノベルの無自覚な先鋭性を指摘し、言われなき蔑視、軽視の対象とされていることを嘆き、それを取り巻く環境を(私のように敬遠している者も含めて)批判されていたのですが、まだ導入部にしか目を通していない本書も今のところそのような主張が続いています。
さて、本書『ゲーム的リアリズムの誕生』は文章量も決して少ないとは言えず、それに加えて濃密な内容となっていますので、私自身の中でも整理していくために、この場をお借りして本書の気になる指摘や論考を独自にピックアップし、東氏の主張に耳を傾けながら、最後に私の感想を述べたいと思います。また、非常に興味深いテーマでもありますので、この問題を掘り下げる意味でも、記事をいくつかに分割してご報告してまいりますので、お暇でしたらどうぞお付き合いください。
まずは序章の中からいくつか。
「ポストモダン」あるいは「ポストモダン化」は、1970年代以降の先進諸国で生じた社会的変化を意味し、「オタク」とは、同時期の日本で成長した、マンガやアニメ、ゲームなどを中核とした趣味の共同体を意味している。
と、丁寧に前著『動物化するポストモダン』のキーワードであった“ポストモダン”と“オタク”の定義について説明されています。
1995年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベースの台頭」)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。本書の議論は、まずはそのような状況認識を前提としている。
これも前著を未読の方には大事な説明ですよね。
で、私にとって興味深いのは
この「ほかの物語を想像させる寛容さ」は、本論でのち論じていくように、現代の文学を考えるうえで鍵となる概念である。
という指摘、これがホントなら是非教えて欲しいと思ったのです。
それでは早速、第1章/理論のチャプタ1からチャプタ3までの気になる部分をピックアップしていきます。
初めに、そもそも“ライトノベル”とは如何なるものか、ついて説明されているのですが、その中でライトノベルという呼称は、正確にはジャンルではないということが記されています。では一体何なのかと言えば、角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫等、出版元のレーベルや表紙にデザインされたキャラクターイラストの有無で区分されているのが現状だと言う。しかしそれでも現実的には機能しておらず、読者の側から“ライトノベル的”と見なされているものもあり、その代表が『戯言』シリーズの西尾維新氏とのこと。
これなら私も知っています。箱に入ってたりするヤツですよね。森博嗣さんや舞城王太郎さんなんかのメフィスト出身者や宮部みゆきさんの一部の作品が同じ棚に並んでいるのを見たことありますから。ただ、やっぱり『クビキリサイクル』(西尾維新著)あたりはレジに持っていけませんよ。カッコつけてるわけじゃなくて、これはやはり通常の男子なら普通の感覚だと思いますけどね。
で、次に面白いのが漫画やアニメのいわゆる“同人誌”などに代表される二次創作について言及したくだり。
日本のマンガやアニメの消費者の多くは、このようなキャラクターの自律化にあまりに親しんでいるので、いまさらそれに驚くことはない。しかし、これは考えてみると奇妙な事態である。(中略)人々はなぜ、物語を離れたキャラクターを受け入れてしまうのか。
確かに、“綾波レイ”なんて完全に一人歩きしてますよね。以前の記事で杉作J太郎さんが綾波レイ(パチンコの方)に入れ込んでいるとご紹介したんですが、オリジナルのアニメでは見たこともないような衣装に身を包んだ綾波フィギュアに目を剥いたものです。
そうしたキャラクター主導の傾向を東氏は“大きな物語の衰退”と表現されている。それを受けて、物語ではなく作品の構成要素そのものが消費の対象となっているという意味で「データベース消費」と名づけたのだそうです。
急速に増大したオタク文化の経験値を積んだ消費者たちは、作家との間にいわば共犯関係が成立し、その恩恵として作家は萌えのリテラシーを期待して、キャラクターを造形することができる、とのこと。
なるほど、それにも合点がいきます。私が中原昌也氏に共鳴するのは、その根底にある種の似通ったルサンチマンを無意識に感じ取っているからであり、その意味に於いてはアニメ、漫画、ゲームオタクとも大差なく、どちらも内輪向けの宴会芸なのかもしれず、健全な一般社会から見れば五十歩百歩という存在なのは否定出来ない事実かもしれません。
そう言えば、中原氏は『嫌オタク流』なる本に参加されていましたが、あれもおそらく近親憎悪に似た感情なのでしょう。
ただ、私にはいわゆるオタクである人々の純粋さ、そのジャンルにとことんまで精通する精神が稀薄で、映画や文学が本当に好きなのかと問われれば、「さあ」と歯切れの悪い返事しか返せないのであります。